茶の湯の美学を、ふたたび
茶の湯の歴史
日本でお茶を飲む文化が始まったのは、奈良時代、当時中国の唐に留学していた人から日本へもたらされたとされています。嵯峨天皇はお茶をたいそう気に入り、茶を植えて宮中に献じるよう命じています。
平安時代には貴族や僧侶の間で喫茶の文化が継承されましたが、まだ生産量は少なく、庶民の口には入りませんでした。
鎌倉時代、永西が茶樹を宋より持ち帰り喫茶文化を広め、また茶の生産量が増えたこともあり、武家の世界にお茶が普及します。
室町時代には、お茶の種類を当てるゲーム「闘茶」が流行り、その部屋は豪華な品々で飾られていました。また生産量がさらに増大したことにより、喫茶の習慣は庶民にも広がります。地域の人をお風呂に招待し、飲食と喫茶を行う「林間茶湯」の風習も起こり、やがて堺の町人らに代表される「茶の湯」が誕生します。
戦国の世においては、武士たちが戦いの緊張を癒す遊びとして「茶の湯」が流行り、精神のバランスをとっていたとも言われています。そんな時代に天才茶人・千利休が生まれます。
江戸時代に入ると、武士たちにとって茶の湯の学びが就職の一環として定着してきます。江戸時代を通して、茶の湯は武家の教養とみなされるようになります。
戦国時代にすでに形が出来上がった茶の湯は、道具を蒐集するという方向でこの趣味が注目されるようになります。
明治時代以降、茶の湯が女子教育に取り入れられるようになると。従来は男性の文化であった茶の湯が女性の教養文化へと発展していくようになりました。
鎌倉時代
1191年
永西が宋から新しい喫茶法を日本に持ち帰る
日本に喫茶文化が広がる
鎌倉末期には「闘茶」が流行
室町時代
1467年
珠光が茶の湯を創設(侘び茶の祖)
戦国・安土桃山時代
1522年
千利休が誕生(侘び茶の大成)
織田信長、茶道具の名品を蒐集する「名物狩り」を行う
千利休、豊臣秀吉の茶頭をつとめる
1586年
秀吉、「黄金の茶室」を造る
1591年
利休、秀吉に命じられて切腹
江戸時代
1648年ごろ
表千家、裏千家、武者小路千家の三千家が誕生
1859年ごろ
明治時代〜大正時代
明治維新により茶道が一時衰退
財界人らが名物道具を蒐集し、茶の湯が復興
西洋文明が日本に流入し、テーブルと椅子で点前を行う「立礼式」が裏千家により発表
岡倉天心、ニューヨークにて「茶の本(THE BOOK OF TEA)」を刊行
以降、女子教育に茶道が取り入れられる
千利休(1522-1591)の時代の文化
16世紀、千利休の生きた時代は戦乱ではありましたが、文化的には豊穣な時代でした。利休の生まれた堺は京都よりも都市として発展しており、京都、奈良などを含めたこれらの地域は応仁の乱の後、都市民が文化の担い手として現れたのです。
「市中の山居」という言葉があります。これは、都市に住む市民が自分たちの文化にはない田舎の暮らしに関心を持ち、かつての西行などの隠者の草庵を真似るようにして屋敷の一隅に狭い小屋を建て、そこで時には互いに茶を招待し合い、時間や空間を楽しむものでした。
利休が極めた様式美
利休が考案した基本の形は「利休形」と呼ばれ、その後500年にもわたって今日まで茶道具の規範となっています。その中には、利休が自ら作ったもの、利休が見立てたもの、利休が自分の好みの意匠を他人に製作させたもの、と広く語ることもできますが、いずれにせよそのデザインは利休の美意識を反映させたものです。
やがてこれらの器形は「写し」が製作されるようになり、量産もされるようになっていきます。
茶室について
茶室は単なるティールームではなく、茶の湯の精神と美学の理想郷でした。元々都市に暮らす住人が山の中の隠れ家をイメージして考案した空間とあり、大勢で騒ぐ社交場ではなかったのです。狭い部屋で装飾も簡素化し、より親密に触れ合うことのできる侘び茶の世界を極めていくと、それが四畳半にいきついたのでした。
現在主流となっている四畳半の茶室には、敷かれた畳に応じて人の動作や位置が決まるという機能美も伺えます。
点前
主人が客の前でお茶を点てる一連の動作を「点前」と呼びます。点前は茶の湯の形式美とされる精神の集中、清め、敬意を表しています。
パリ日本文化会館(Maison de la culture du Japon à Paris)による、茶の湯の映像です。